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悲観は気分、楽観は意思から

  • 執筆者の写真: tsuruta
    tsuruta
  • 2020年3月17日
  • 読了時間: 3分

更新日:2020年3月27日

色々なイベントが、急に中止となっている。


高校野球中止など、これらの意思決定プロセスに疑問を感じる人は多い。「やる」「やらない」の選択をする場合、リスク対比のリターン、あるいはコスト対比のリターンで考えないと答えが出せない。高校野球もそうだろう。中止を選べば、「安全」というリターンが手に入る。しかし、開催したときに得られる大きなメリットを諦めることになる。主催者側にとっては「センバツ開催」というリターンよりも、万が一開催して「安全」を失った場合の責任問題という「リスク」が大きいので、「中止」という結論になったのかもしれない。


しかし、選手にしてみればどうであろう。「感染」というリスクを負ってでも「センバツ出場」というリターンを追求したかったに違いない。その気持ちを察する気概が、主催者側にあっただろうか。選手の気持ちや熱量を分かっていないのではないか。むしろ、自身に降りかかるリスクを逃れることで、頭がいっぱいなのだろう。屋外スポーツでさえこういうことが続けば、社会はどうなるだろうか。危機は危機であるが、時期や震度の説明が必要だ。


「悲観は気分であり、楽観は意思」である。


なぜ、賢明なるその意思によって、リスクを最小限に抑える合理的手段を思考しないのか?主催者側はリスクを避けたい一心であろうが、それが本当に絶対解か。今こそ、立ち止まる必要がある。


最初から、「リスク・ゼロ」などはない。主催者は、誰かの犠牲の上に胡坐をかいているだけなのだ。現場を知らない経営者や学者は、リスクを全く取ろうとしない。彼らに、高校生の人生をかけた競技を取り仕切る資格はないのかも知れない。


『ブラックスワン』で有名なナシーム・ニコラス・タレブの近著は『身銭を切れ』(SKIN IN THE GAME)で、「自分の意見に従ってリスクを冒さない人間は、何の価値もない」という。合理的なリスクを取ることは、人間と機械との違いを決める問題であり、人間としての「格」の問題でもある、とタレブは言う。


今、未曽有の危機に際して、僕らは大きな不確実性に直面している。ここでの「リスクの取り方」は、僕らの生き方そのものだと言える。リスクに際して、英知をどう発揮するか。これは我々に対する戒めでもあるように聞こえた。勇気ある選択をする必要がある。


完全なる「リスク・ゼロ」など、最初からない。経済活動、感染症、交通事故。無意識のうちにリスクの中で生活をしていることを忘れてはいけない。賢明な判断を我々はしている、と中止した人は言う。本当にそうだろうか?思考停止になってはいけない。リスクがバランスすることが大切だ。バランスが取れた社会生活を営まねばならない。


経済を知らぬ感染症学者の言うとおりに、いつまでしているのだろう。無意識な思考停止を疑ってほしい。リスクを合理的に許容する落ち着いた社会をゆっくりと選択していくべきだろう。

  

                        大阪のウエスティンホテルの中庭にて



 
 
 

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