大阪都構想とマスコミ
- tsuruta
- 2020年10月28日
- 読了時間: 5分
更新日:2020年11月18日
あまり政治向きの話は得意ではない。長く生きていると、知っている政治家はいるにはいるが、まだ語れるほどのドラマはない。
ただ、最近の日本学術会議の話と大阪都構想を放送するマスコミの立ち位置が、放送局によってバラバラなことが面白い。日本のマスコミもようやく成熟してきたかと思う。BPOで非難を受けないように、形だけの両論併記型(透けて見える本質は全て現政権批判型)の放送が今までは主流だった。そうしないと市民からの投書や批判電話があったと聞く。だが、最近、橋下元大阪知事がマスコミに出てきてからくらいであろうか、いくつかの放送局は本質的にバランスよく両論を並べるようになった。
ただ、まだ問題が多い。先日、ある新聞社は反対のために大阪市財政局と深い関係を持ち、誤解を招きやすい表現を使った記事で一面を飾った。その記事を引用して、M放送やA放送は本質的には現政権や現自治体に対して批判的な放送を流した。聞いていてかなり偏っていた。中立的とは思えない、表現で批判していた。それが報道のあるべき姿として「彼らの正義」と思っている。必ずしも「正確」ではないかもしれないが、分かりやすい「彼らの正義」なのだろう。中立的な私が聞いていても、大阪都構想の報道についてはかなり偏っている。批判が主体であり、都構想「反対」に誘導的と言っても良い。意識的にしているのか無意識なのかは分からないが、かなり誘導的に見える。
「彼らの正義」は、現政権が性悪説であることを前提に見る。戦前の軍部や軍事進出擁護記事や放送の反省からだろう。それは当時のことで彼らの問題であった。今時、無批判に政権を見るなど、それほど幼稚な人は少ない。それはそれでいいのだが、今の彼らのそれは一方的なのだ。振りかざす「正義」が、公平でも公正でもないように見えるのだ。広報のプロから見れば仮説の検証努力が不完全で足りておらず、証拠集めが誘導的と感じさせる。無理やり資料を集めれば、大阪市財政局からのデータを基礎にして事実誤認の上に「曲がった資料」がM新聞から出る。言い訳は、いつも「時間の制限」だ。読者や視聴者から見れば、疑問を抱かせる放送が少なくない。大阪市の広報が組織として動いていないのだろうか、第三者の見方が入っていないのだろうか、「客観性」を装うが、放送局のキャスターも明らかに誘導的だ。組織としての大阪市は、大阪都構想自体を「党」としての行動と見ているのだろう。組織の広報関係者が動いていない。市役所職員も「市」がなくなることは好ましくないのだ。明らかに市職員は反対としか外形的には思えない。それを感じさせる放送局の対応である。そこを面白く見ている。そういうものだろうが・・・。
まあ、大阪市民でもないので、どうでもいいのだが・・・。
「彼らの正義」に対する「私の違和感」だけの話である。取るに足らない話である。
これも民主主義なのだ。何でも発言できる良い国であるが、それで大事な提案が潰されていいのだろうか、とも思う。広報下手の市長が進めたから大事な提案だが選挙で敗けました、では済まないようにも思える。何とかフェアにやってほしいものだ。
また、もう一つの論題。「日本学術会議」のことだ。一市民にとっては論題が極めて小さい事柄なのだ。
「日本学術会議」など一般の市民からすると、どうでもいい団体である。一部の大学関係者の集まりであり、あまり実現されたと聞いたことがない提言を稀にする団体のことなどに時間を使うマスコミも暇だと思う。その団体の構成をどうするかなど、どうでも良い。かしましくいうのは関係者であり、それで得をする団体だけだ。ためにする議論であり、その論題が小さすぎる。お好きにどうぞ、である。健全な人は、概ね同じ意見だろう。無関心なのではない。事柄の軽重を選択しているのだ。
もう少し大事なことは別にある、と思う。今は、非難する時期ではない。それは政権の「成果」を見て判断すべきだ。
「果実」を見ずに「種」に文句を言うようなものだ。
もう少しゆっくり構えようではないか。そして、言うべき時が来れば、証拠をしっかり持って主張すべきではないだろうか。どうも、「時期」が違う。適切な時期に花は咲くものである。時機や本質を見間違ってはいけない。また、小さなことに左右されて、大事な本質を見失ってはいけない。当たり前の話だが、物事の大事な「時期」と「本質」が、「彼らの正義」に勝る。本質を間違えてはいけない。
私は年中「反対だ、反対だ」と言っている人にも、また逆に、いつも「何が問題か」と威張っている人にも、そして、なによりも年中「大変だ、大変だ」と言っているマスコミなる職業人たちに付き合う気はない。出た結果をよく見て、論じたいと考える普通人である。そういう人は普段は大変静かだ。なぜなら、「大変なこと」は頻繁には生じないし、物事は熟成しないと一定の初期の結果も出ないものだ。
政治家には選挙という装置があり、否が応でも総括をされるが、マスコミには、外部からも、ましてや自浄装置もない。ただただ唯我独尊の世界である。静かにしている普通人としてはささやかな抵抗として、バランスを欠いた新聞は読まないし、放送も見ないことだ。
かしましいマスコミを避けて、近所を散歩した。大きな木の近くに風に揺られる花を見つけた。桔梗であろうか。そういう季節である。
時機を見て最後の力を振り絞って綺麗に咲く桔梗を見て、年中「大変だ、大変だ」といっているマスコミを笑っているように思えたのは私だけだろうか。

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