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分かるということ

  • 執筆者の写真: tsuruta
    tsuruta
  • 2020年4月26日
  • 読了時間: 7分

更新日:2020年10月10日

TV会議を多数やっていると、「分かりあえない人」が出てくる。その場は流しているが、案外と多いものだ。


これは哲学的にいうとエマニュエル・レヴィナス氏などがいう「他者」ということだろう。「他者」とは、なかなか分かりあえないものだ。私も企業側にいたときは、投資家とはなんと自分勝手で強欲なものか、と思っていた。しかし、資本と経営の間にある「川」を渡ってみると、分かることがある。むしろ、不勉強の企業側と投資家として対してみると、企業側にも甘えがあることに気付いた。「他者」となってはじめてわかることである。


これは「他者」の視点を理解したお陰であろう。やや哲学的な話になるが、少し紙面を割く。


「他者」とはそもそも、分かりあえないものだ。ある人にとっては「これが決定打だ」と思っても、決して「他者」にとってはそうではない場合があるからだ。こういう会話の場合、企画会議などでは、連綿と「提案」と「否定」が続く。永遠に「完全な合意」に至らないかのように思えることもある。その場合、多くは「他者」にラベリングをして自分の意思決定から遠ざける。


それでも「他者」が重要だと思う。


それは他者が「気づきの契機」になるからだ。自分の視点から世界を理解をしていても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。この時、「お前は間違っている」と否定することもできる。実際に多くの人は「自分は正しく、自分の言説を理解しない人は間違っている」という断定する。それが悲劇のもとになるのだが、断定しラベルを張り、遠ざけるほうが毎日は楽なものだ。「他者」にラベリングをして、どうせあの人はああだからとか、強欲な投資家だからと、勝手に断定した方が精神的には確かに楽だ。


ただ、自分と世界を異にする「他者」を学びや気付きの契機にすることで、今までの世界と異なる世界の見方を獲得できることがある。逆に「他者」をラベリングして遠ざけると、自分の世界は広がらない。理解することで「変わるチャンス」を完全に失うことになる。


身近な例を言うと、子供のころに習い事をしていた時に、「他者」である先達から経験に基づいた「訳が分からない」助言を聞くことがよくある。習字であれば「心を静かな闇の中に」とか、絵画であれば「心を遊ばせる」とか、音楽でいうと「音を探しに行くな」とか。分かったようなわからない助言がある。それが、ある日、何年か修練していると何かが氷解するかのように「分かる」時がある。言葉でうまく表現できないが、高い次元での理解はそういうものだ。


分かりにくいので、もっと身近な例で言う。鉄棒での「逆上がり」だ。この逆上がりが最初はうまくできない。ただ、そのうち筋肉もついてきて、ささやかな助言で、突然できるようになった経験がある。自転車に乗れた幼い日のことを思い出しても、そうだろう。何かのささやかな「他者」からの助言による「きっかけ」で、自分が変わることがある。


未知のことを「分かる」ためには、「今は分からないもの」に触れる必要があるということだろう。今、分からないものを、分からないのでと永遠に拒否すれば、わかる機会は失われてしまう。


また、高い次元の理解は時間はかかるものだ。例えば、10年同じ仕事をしてみないとわからないことがある、などということもそうだろう。未知のものを修練を続けて経験しないと、わからないことがある。


「他者」との接点を絶つことや、「他者」をわからないとすることで、分かる機会も永遠に失われることもある。また、修練を途中でやめることで、せっかくの理解の機会を失うこともある。


分かるということは「変わる」ということなのだが、その機会もなくしてしまう。


ただ、実際に分からないことを分かろうとすることは難しいものだ。分からないものと付き合うことは、苦痛を伴うこともある。わからないものとして「他者」を退けることの方が楽だが、結局、それでは変わる機会を失うということなのだが、人間はそのほうを選択しがちだ。


これで将来、大きな差ができる。


分かると口で言うことは簡単だが、それは変わる契機になっていない。懸命でないと本当に会得した(分かるということ)とはならない。分かったつもりで、実は分かっていないということもある。多少の苦痛で分からないとし遠ざけると、永遠に会得出来ないこともある。


経営もそうだ。”コツ”があると松下幸之助は言う。


学問、知識にすぐれ、人格的に非のうちどころのない人でも、経営者として成功するかというと、必ずしもそうではない。経営者として成功するには、それに加えて「経営の”コツ”をつかんでいなければならない」と、松下幸之助は言っていた。では、その“コツ”はどうすればつかめるのか。「一つひとつの仕事に一生懸命取り組みつつ、素直な心で反省する。日々それを繰り返していくうちに、だんだん間違いのない仕事ができるようになっていく」と彼は言う。学ぶのではない。毎日の仕事に意識を働かせ、身をもってつかみとるのが「経営のコツ」であり、これを会得すればその価値は計り知れないというわけだ。分かるということは、そういう不断の努力や真摯な疑問から始まるのだろう。昭和九年の年頭に言った言葉である。85年前の言葉である。


難しいものである。


「分かる」とは本当に難しい。無論、経験の差が大きいが、計算して分かることを意図することは不可能だ。そういうことは大したことがないことが多い。本当に大事なことは、多くの場合、「他者」からのコメントが心に引っかかり、ある日、突然わかる、ということではないか。これは真摯な不断の問いかけとある程度の修練というか経験がないと、出来ないのではないかと思う。


これはIRミーティングでも同じだが、この「真摯さ」と「経験」の差が出る。真摯さを伴わないIRなどは論外である。準備をしてこないIR担当者とたまに会うが、意識としてはスルーする。こちらの質問に対する答えに深さがない場合は、そのように理解する。所定の時間が1時間ならば45分程度に出来るだけ短くする。こういう輩とは、出来れば長く付き合いたくはない。


投資家側の問題もある。多くの経験をしている投資家と資本効率しか追わない投資家で、質問の内容などにも相手の理解が異なり、おのずと大きな差が出る。理解の仕方が違うのである。経験があると「他者」を深く分かることができる。製造会社にいたこと、経営陣の一角であったこと、マーケを長くしたこと、海外の子会社の経営をしたこと。今、事業をしていること。有難いことに、これらの下らない経験で、相手が何に苦労しているか少しは理解できる。どのステージか、手に取るようにわかることもある。しかし、分からないことも無論、多くある。業界が特殊な場合はそうであろう。新しい産業もそうであろう。そういう相手に会う時は「真摯さ」が必要だ。素直に熱心に聞くことであろう。新しいことを知ることはいつもワクワクする。新入社員のつもりで聞く。


そこに、新しいことが理解し、分かる機会がある。それによって私が変わる機会となる。そこにストーリーが生まれ、投資機会が生まれる。無論、逆に永遠に分かりあえないこともある。それでも投資家は、門を閉じてはいけない。相手が変わる可能性もあるからだ。少なくとも私は2、3度は我慢する。一人だけでは会社の全体像は分からないからだ。


視点を変える。


身近な人で新しいことを知ることはある。私の場合は、妻や娘、そして最近では孫たちも、意識は異星人かな、と思うことさえある。また、一方で、色々教えられることもある。最近では、任天堂スイッチのゲームの面白さも、孫から教わった。わからないことが分かると、楽しいものだ。親族という「他者」に興味を持ち、思考回路を理解しようとする。そして、納得すれば、こちらも「変わる」ように努力する。些細なことだが、新しい世界に触れることが出来、そのほうが面白い。つまらないことかも知れないが・・・。


少し、寄り道をした。


「分かりあえない他者」に会うこと、そして「他者」との接点を絶たないことが大切だろう。そして、出来れば深い理解をするよう寛容になることが大切だろう。自分自身が変わる機会を遠ざけないことが個人にとっても、経営者にとっても重要だ。


松下幸之助氏は「自分以外、皆、師である」と言った。


こういう経営の神様の心境にはなれないが、要は、不愉快でも「外」との接点を切るな、ということであろう。相手があまりに低次元でも、ブチ切れてはいけないということだろう。それも鍛錬と、自分を納得させて「分かりあえる」まで待つということだろう。積極的な我慢が必要な時期だ。


新型コロナによって不自由な生活を強いられている人は多い。しかし、それでも「他者」との接点を絶ってはいけない。それは自分の成長のためであり、自分が属する組織体のためでもある。




分かるということを考えながら、脳天神社を散歩して・・・・・。








 
 
 

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