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ゾンビか独裁か

  • 執筆者の写真: tsuruta
    tsuruta
  • 2020年6月23日
  • 読了時間: 7分

更新日:2020年8月30日

最近、変わった企業とのコンタクトがあった。極端かもしれないが、印象に残ったのでご紹介する。


一つは伝統的なモノづくり企業だ。丁寧なプロジェクト運営で顧客に寄り添う良さがある。しかし、一方で新しい技術が出てきて得意としていた技術が古びてきた。よくある話だ。圧倒的な価格差が出て、省エネ性能なども大きく異なる。そういう時代背景を認知したうえで、それでも現状維持を続けようとする。まだ、古い顧客がいるからというのだ。目先それはできるだろうが、もってあと5,6年だ。取引先はどこまで付き合うだろうか。新しい技術が追いつくには時間はかからない。多勢に無勢だからだ。しかし、当事者は古き良き技術に親しみがある。過去の成功や栄光を忘れられない。無論、やめないのだからリストラもしない。外から新しい技術者も入れない。自前主義の下請け型の技術会社だ。メインライン以外は新製品群がある。筋が良いものもある。ただ、優秀な技術者がリスクを抱えて新しい技術にチャレンジしようとはしない。この会社では評価されないからだ。あえてやるガッツがあるなら、この会社を辞めてやるだろう。幹部の中に新製品のマーケッティングや目利きができる人材もいない。良いものであれば、勝手に売れると信じている。そして、量産でコストを下げる技術にも熱心ではない。得意ではないからだ。取引先が要求してくることを丁寧にこなすだけだ。言われないことはしない。それは彼らには無駄なのだ。要求されたものを丁寧に作る「DNA」が、彼らの拠り所だ。


ここでポートフォリオがものをいう。今までの稼ぎ頭であり、伝統的そして独占的利益を上げていてきたが、漸減していく事業。そして、それぞれは小口だが、新しい技術を使った製品群がある。後者に研究開発や設備投資を振り向けねばならないが、そのスピードが圧倒的に遅い。新分野であっても毎年10%づつ増やすなどの傾斜投資であり、リスクを取らないやり方である。50代後半や60代役員は逃げ切れるが、40代以前の人は会社はどこかに買われてしまう可能性がある。つまり、無くなる前のゾンビ企業の道を辿っている。銀行出身のCFOが流ちょうに語るが、各論がない。技術に暗く、危機感が全くない。銀行出身である自分は逃げ切れる、ということか。リスクも取らないが、成長も考えない。現状維持プラスマイナうで考える。こういうところは、大企業に多いが、中堅企業にこのタイプは意外に多い。


もう一つは、とんでもない独裁企業。思い出すだけでも気分が悪くなる。要は議論はなく、当社は今年、X%伸びるから、それを信じて投資しろというのである。理由を議論しないのだ。それを達成する道筋を確認したいのに、ただ信じろと言う。新興企業のワンマン社長は、質問しても「それはいいから、私を信じろ」と言う。それだけの実績があるというのだろう。過去の話は過去の話だ。今の時点での「事実」とは関係ない。投資家は長期的な目標を達成する道筋やその理屈を聞きたいのだ。そして、ワンマン社長はちょっとした思い付きで本業と離れた事業をしようとする。理由を聞くと、「チャネルを拡張し、顧客ベースを増やすため」という。全く異なるサービスだ。にわかに信じがたい。新しくハントした人材がそういっているから、という。さてさて、それが経営なのか・・・。


それでも信じろと言ってくる。なかなか信じないと、とうとう怒り出した。「分からん人だなあ。そしたら持っている株を売ればいい。俺が買うよ。」「?」


なんのことやら。面白い上場企業だ。元気がある企業でもある。投資家との関係はそれでいい。所詮、一瞬の話。こういうところとは、そんなものかも知れない。しかし、従業員がかわいそうだ。そういう人の下で働くのは。人を説得できないリーダーが、事業を引っ張ることは悲劇だろう。いまだに「昭和の根性論」で、勝負しようとする。まあ、頑張ってください、としか投資家は言いようがない。ただ、内部の社員は逃げることが出来ないのだ。耐えるか、辞めるかしかない。元従業員のアンケートを掲載するサイトを見ても、この会社の評判はやはり、悪い。


色々な企業がある。アメリカの投資家から聞かれた。「ゾンビ」と「独裁」、どちらがましかと。


さて、困った。しかし、成長する可能性は独裁型の企業には、まだある。だが、長期的に見ると、将来は危ういだろう。名前の通り、ゾンビ企業に将来はない。コロナで金融機関が企業に低利で貸し込む中、この種の「ゾンビ的な企業」は確実に増えてきている。合理的な投資か、投資家は見極めねばならない。彼らが「外」に向ける顔は、別だからだ。


案外、どこの一流会社でも、そういう部門はあるものだ。ゾンビ企業ならぬ、ゾンビ事業やゾンビ部門だ。過去の栄光は素晴らしかったが、今は会社のお荷物。無くなるものは早く無くさねばならない。どうあっても「ならぬものはならぬ」のである。しかし、こういう事業や部門を日本の企業は、なかなか切れない。組合の抵抗もある。自分を役員に引き立ててくれたOBたちの怖い顔が見える。決定的な事象が起こるまで、なかなか決断できない経営者は多い。人のことは言えない。自分もそうだったかもしれない。ただ、かわいそうなのは実は、従業員だ。慣性の法則で、いつまでも不要な部門を維持しなければならない。組織幹部は、従業員を行かせるところもない。やりがいのない仕事をそのままやらせるしかない。しかし、こういう事業をだらだらやると、何か「良からぬこと」が起こる。そんな経験は、嫌というほどしてきた。そして、やっと動く。いや、動かざるを得なくなる。「発展的解消」や「発展的統合」の決断をするときには、累積赤字は思いのほか膨らんでいるものだ。


経営者は、自分の組織をいつも「外の変化」にさらす努力が大切だ。社会は毎日、変化しているのだ。生き残るためには、会社も組織も社会の変化あわせて、変わらねばなるまい。これが意外に難しい。現状維持が、人間には心地良いのだ。そういう意味で「日々新た」を信条にしていた松下幸之助は、人間そのものを見抜いていた。変化はどこにでも、突然やって来る。人を活かすにはどうしたらよいか。その活かし方を、日々考えていた。多くの悩みの中で、彼は決断した。事業部を独立させ、上場会社にした。そして、単体の事業を否でも世間の冷たい風に曝したのだ。厳しいと言えば、本当に厳しい。が、独立した方はやりがいもある。そして、懸命に子会社経営者や従業員は頑張った。結果、27万人の松下電器グループを作った。それを2000年代に台無しにしてしまう経営者群が出てくるまで、そういう子会社群が松下電器を牽引したのは間違いない。


「我が社は先進IT企業」と謳っているところが、ネットミーティングやネットIRは出来ませんという。紺屋の白袴である。投資家から見ると「セキュリティのため」と言われても、理解できない。本業ではないか、と思う。「外」の変化に「内」のルールがあっていないのだ。


伝統は変化してこそ、確かな伝統として、しっかり生き残る。辻が花染第一人者であった久保田一竹は幻想的な染色の世界で、晩年に新境地を作った。河口湖近くの美術館で、その幻想的な美学を知ることが出来る。変化に学ぶ姿勢やチャレンジは、どの世界でも必要だ。長く生き残る企業は、時代のニーズにあわせ変化していくのだろう。多くの新興企業は池に浮かぶ「うたかた」のようなものだ。今はいい、しかし、どこまで続くのか。それが利益の高い手法ならば、大企業も参入するだろう。また、多くの同業が参入し激しい競争が始まるだろう。それに勝たねばならない。それに生き残ってこその事業ではないか。上場して事業継続の正当性を勝ち取り、上場継続がまだ担保されたわけではない。まだ、上場企業になるための資本主義の洗礼を受けている段階だろう。


どちらにも投資はしない。黙って見ている。静かな心で変化を見ている。一瞬の変化を見逃したくない。変化の兆しが見えれば、一気に動く。それが投資家だろう。静かに佇む久保田一竹美術館に来て、館内の喫茶店から古風な池を見て、そういうことを考えた。




山梨の久保田一竹美術館にて




 
 
 

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