一期一会
- tsuruta
- 2020年4月13日
- 読了時間: 12分
更新日:2021年8月30日
最近、PCを使ってTV電話でミーティングをよくするようになった。
直に会えない環境であるから、仕方がない。しかし、その準備に使う時間は、訪問することと変わらない。会う相手の過去3~5年間の資料は、すべて読む。5時間かかることもある。畑違いのファーマシーの分野などは、10時間以上かかってもキーとなる論文を分かるまで、読み解く。そのために国会図書館にも行くこともある。それが楽しいというわけではないが、人に会う最低限の「マナー」だと思っている。私にとっては、マラソンを走るためのジョギングだ。つまり、当たり前の儀式のようなもの。
最近の企業のIR関連の人は、細かい数字に拘りたがる。インサイダーという法律の枠組みを気にしているのだろう。サイレント・ピリオドも同様だろう。こちらはIRベテランで、そんなことはわかりきったこと。はじめから数字など聞くつもりもないし、関心もない。そういうことは、どうでもよい。そのことよりも大切なことが、たくさんあるように思う。
少し、寄り道をしたい。
IRの歴史についてだ。知らない人が多いので、ここで紹介しておく。
日本のIRは、1970年のSONYの米国上場に始まる。当時の社長の盛田昭夫が日本最初のIRマンと言って良い。80年代だと思うが、盛田氏がIRで欧州を飛び回る姿を私はこの目で見た。盛田氏はロンドンのヒースロー空港を早足で闊歩し、自慢の白髪をたなびかせていた。あの時代のSONYは輝いていた。盛田氏の横についていたのが、役員格で佐野氏がいた。彼のこともよく覚えている。気さくな人であった。2人とも颯爽としていた時代の話である。40年前の話である。
そして、翌年の71年に、西の松下電器(現パナソニック㈱)が米国に上場した。SONYのような格好良さはなかったが、業績や経営スタイルでは勝るとも劣らない会社であった。ここのIRはCFOの下で財務部長がいて、その下でIR活動をしていた。そして、実務は「財務広報」という名で2,3名が担当した。70年代後半に同社のVHS方式が主流となり、事業は躍進していた。ここらがIR第一世代である。この時代のほとんどの功労者たちが、鬼籍に入った。
日本IR協議会の方々も、無論、IRの黎明期の歴史は知らない。実際、評論家たちは現場の歴史を知らないものだ。それでもIRを語りたがる。仕事だからであろうが、ウソや誇張は困る。真実は、いつもドロドロしたものということだ。私は歴史を知らない理屈ばかりの評論家の「シッタカ話」に違和感を覚えるが、笑って済ませる。常識ある歴史の証人たちは、そういうことを語ることはない。知ったかぶりの語り手は現場を知らない「評論家」と称する人種である。そういう人とは距離を保ち、彼らの話を冷ややかに笑っているだろう。それくらいどうでもいい。
さて、本題に戻す。私は第2世代だ。30年前の話である。第一世代を見ながら、バブル後だが債券発行も含め格付やIRのすべてを担当してきた。面白い時代であった。この時代、トヨタの槙さんやキャノンの松本さんがIRマンとして活躍していた。90年代の東証1部の株式取引高の3割をパナソニック、ソニーを加えこれらの超優良企業数社で賄った。ある意味、日本というよりも「世界」でトップ数社のIRマンたちが戦っていた時代であった。激動であったと言っていい。
80年から90年代初頭はそういう一握りの上場会社が世界で活躍したが、それ以外は東証のルールに則る最低限の開示しかしていないIRの時代であった。先端を行く会社が一つ一つ手探りでIRのルーティンを作っていった。IRのマニュアルもこれら数社で最初は80年代後半にできたことを今の人達は知らない。これを世の中に広めていった面白い時代でもあった。
その時代に、今の日本のIR業務のほとんどのベースが築かれている。例えば、今では常識になったが、パワーポイントによるIRプレゼン。これは西の会社から94年に始まった。そして、ウォタ―・フォール・チャートなど各種のグラフを駆使した。社長によるプレゼンに続いてIRデイや社長によるIR世界一周ツアーなど、次々と新しいことをやった。忙しい時代であった。ナショナル・フラッグを背負ったこの数社が日本のIRを牽引した。IR担当者は金融自由化の追い風を受けて、時代を駆け抜けていた。業績は無論だが、IRの「巧拙」が株価にダイレクトにヒットした。そういう時代であった。
SONYのIR第一世代が盛田さんや佐野さんとすれば、第2世代は2000年初頭に後に福武書店のトップになった森本さんや現在CEOの吉田氏であろう。当時(90年代後半)は、まだ吉田さんはIRの課長くらいであったろうか。突然、訪問したことがある。吉田氏は何をしに来たのか、と驚いた顔をして真意は何かと訝った。得意のメモを取っていたことを思い出す。私は、敵の顔が見たかっただけだが・・。
この時のセルサイドの有名なアナリストのなかに、元モルガンスタンレーの山本氏(現在は日立製作所の社外取締役)がいた。この時代、セルサイドのアナリストはこれらの巨大上場会社には平身低頭であった。セルサイドのアナリストは、「表」と「裏」のある世界である。彼らがバイサイドに見せる顔と、上場会社に見せる顔は全く違った。企業からは情報が欲しいのである。証券会社トップからも企業に嫌われるな、と厳命されてもいる。無理もない事情があるのだ。
上場会社にとって「バイサイド」との面談が、IRにとっては本当の勝負であった。
全部とは言わないが日本にはサラリーマン意識の機関投資家が多くいた。この人たちの相手をすることは楽であった。聞くことが同じで、ほとんど自分の意志で動かない。むしろ、動けないのであろう。メモを取るだけで、上司に報告し「変化」を知らせるだけである。動くときは一斉に同じ方向に動く。いわば、上場会社から見ると脳死状態の投資家である。自己責任を感じぬ投資家のように見えた。これでは、再度バブルは日本に到来するであろうと思った。
IRから見るとセルサイドや日本のバイサイドは怖くないが、海外のバイサイドは違った。
海外バイサイドでは真剣であった。事情が違った。代表的な日本企業は海外では本当に息詰まる舌戦が続いた。これは真剣勝負であった。会社自体と言ってもよい「株式」を彼らに全力で推薦するのであるから、こちらも真剣であった。投資家も「良き選択」をしようと必死であった。業績が悪くなると、罵倒されたこともある。ある地方の米国投資家からは「Door is there」(出ていけ)と言われた。トヨタで後に専務になるが、当時IR責任者であった槙さんからも、同じ投資家で似た経験をしたと聞いた。また、業績が良くなると投資家から抱きつかれた。株価が2倍に上がるとNYの有名投資家である長身のマーガレットは、涙を流して握手をしてきた。結局は、買ってもらうと運命共同体ではあるのだが・・・。
会社を代表している経営トップまたはIRトップだけができる仕事であった。
私は、その時期、毎朝CFOと会うようにした。CFOにとっては面倒だったかもしれないが、あの時代の幹部は寛大だった。週に一回は関係の経営トップと会う機会を作った。経営陣が何を感じ、何を悩み、何をしようとしているのか、毎日、知るようにした。そうでなければ会社を語ることは出来ない。経営者が何をしようとし、どう動かそうとしているか、外に語ることは出来ないからだ。無論、余計なことは言わないが、「臨場感」を伝えることが出来るのである。これは大切なことであった。会社の経営陣が発する「熱」、そして経営の「質のレベル」や「品格」まで外に伝わるのである。それゆえ当時の経営トップは、貴重な時間を私に割いた。彼らの時間の1割以上はIRであった。IRのスタッフも、その重要度が増すにつれて国内・海外合わせて25名を超えてきた。良き時代であった。先輩たちのお陰で、IR責任者の会社での地位は他社と比べて高かった。それほど、当時、バブルの傷は大きかったのかもしれない。経営陣も私も、会社の価値を上げることに必死であった。金融自由化の流れで、持ち合いは崩れ、IRが輝きつつある時代であった。
無論、プレッシャーも大きかった。8兆円の会社関連のことは何でも知っていること、それを誰でも分かるように伝えることを要求された。面白い時代であった。当時は、優良企業でも一流の人材が集まり、鍛えられた。そういう部署であった。
そういう意味で、IR部門では当時、ある意味「芸者」を養成していた。別の意味の「踊り」「歌い」「三味線」をやれねば、IRとして使い物にならなかった。
「踊り」とは経理実務に基づいた財務知識であり、松下では簿記一級、または米国会計士(CPA)、証券アナリスト(CFA)くらいのレベルがIR部員は普通であった。違う職能の人から入ってきた人は、相当な勉強が必要だった。実際にIRの半分くらいのメンバーはそういう免許は持っていた。松下の経理のレベルは相当なレベルであったが、その中でも財務メンバーは財務知識では高いレベルを保持していた。
当たり前と言えば、当たり前であるが・・・。
「歌い」とは米国や英国のインテリたちと丁々発止するバイリングアル級の「英語」という道具。今で言うとTOEIC930点くらいが下限。同時通訳ができるレベルといっても良い。IRは「ナイン・ハンドレッド・クラブ」と呼ばれた。私も960点を若い時に取った記憶がある。それ一回きりだ。海外帰りの30歳代だったと思うが、それから社長の同時通訳をさせられた。無論、そんな仕事は大嫌いで、とにかく逃げ回った。上司に捕まって、仕方なく1、2度やらされた。私には、向かない仕事だった。通訳を厭々やらされていると、あまりに社長が分かりづらい説明をしたので、自分なりの解釈を入れた。本意から大きくずれた英訳だが、意味は分かりやすく当時の年老いた相手側幹部は大きくうなづいた。今から考えると、若気の至り。あれでよかったのかどうか・・。とにかく、私には向かない仕事だった。英語力そのものはあったが、相手の言葉をなぞる語学は好きではなかった。その後、外資系証券会社主催の複数社を招いた会社紹介IRの会に、メインIRスピーカーとして何回かモデルIRプレゼン・QAを英語でやった。これは直接、投資家に企業の本意が伝えることが出来、それなりに楽しかった。所詮、言葉は「道具」である。使い方で相手にこちらの意が伝わるか否かは、結果において意味は大きい。英語は出来ないより出来た方がいいだろう。会社を代表する幹部になればなるほど、このコミュニケーションツールは大事だ。ちなみに、私は外人投資家と2~3千時間のIRで、通訳を使ったことは一度もない。
そして、「三味線」は、製品・技術やサービスへの深い知識、R&Dのメンバーとで議論できるレベルだろうか。これは技術知識が広範囲に及び習得に2年はかかった。半導体、光技術、センサーなど、よく勉強した。理科系出身のアナリストと議論するためだが、これは性に合っていたのか面白かった。3か月間くらいは1日の半分はR&Dセンターの実験室で過ごした。のんきな時代ではあったが、今から考えると贅沢なIR幹部養成コースであった。「音」「光」「蓄積媒体」「デジタル」「化学」。これらの何たるかを、ここで学んだ。入社同期が青色ダイオードを当時研究していたが、当時、日亜化学にいた中村氏に完全に敗北したことを知ったのもこの頃だ。成功も失敗も、随分見てきた。これらの事柄は、技術者にとっては基礎編であったが、IR担当者には幅広い知識が身に付き、随分役に立った。当時はこれらの技術的な知識は知っていて、また素人に分かるように説明が出来て「当たり前の水準」と思ったものだ。しかし、今、投資家になり、コングロマリット企業でこういうレベルのIR責任者に遭遇することは、あまり無い。これでは、コングロマリット・ディスカウントが大きくなることは驚くに値しない。説明できないモノには、投資は出来ないからだ。
私は期待に沿えなかったが、パナソニックという会社は社員を一流を育てる社風があったのだろう。感謝しなければならない。
そして、何よりも重要なのが、その会社の戦略などの「ストーリー制作」である。基本の3つの「芸」の上にストリー制作がバランスよくできないとIRにはならなかった。IRトップには「米国でのMBA取得」は不可欠だった時代である。懐かしいものだ。今はそんなもの必要ないだろうが・・・。
そういう時代の埃がかかったIRを経験してきた。4千時間も海外のバイサイドと真剣勝負をしてきた。思い出すのはあるスイスの投資家がもらした言葉である。「投資は単なる金儲けのためにやっているのではない。今、買える同じ量のジャガイモを50年後にも買えるように彼らのお金の価値を、我々は守っているだけである。」これがロングのバイサイドの姿勢である。今、私も同じ立場になり、この価値観を共有する。こういう姿勢の投資家と企業が対するときに初めて、本当のIRが始まると考える。
IRとは、数十年後の企業価値をかけた真剣勝負なのである。
IRのやり方やルールは少し変わったが、今でも共通するものがある。それはIRは「一期一会」ということである。真剣勝負の切るか切られるか、なのである。そのために準備するのは、当たり前だと思う。一瞬で決まるからだ。IRマンは、会社の戦略ストーリーを最もわかりやすく伝えることがなければ、存在する意味がない。会社の名誉をかけて投資家とDEBATEをしているのである。そこで、勝たねば意味がない。ここで「勝つ」とは、相手を「なるほど」と思わせることである。そう出来なければ、時間の生産性がないということなのである。
そこではアナロジーを活用することは必須であろう。事例を使う。グラフを使う。他社比較を使う。私はたまに差別化となる製品や内蔵されている実物のデバイスを見せた。合理化で原価が低減できる様を、基板をBEFOREとAFTERの大きさで見せた。実際の商品やその便利さを見せた。分かってもらうには、そういう工夫や訓練が、普段から必要なのだ。
単なる数字の羅列は、何の意味もない。
数字とは、ストーリーの結果であり、仮説の証明の道具に過ぎない。細かい数字を必要としているのは一部のアナリストと三流のヘッジファンドだけだろう。そのことを理解しているIRパーソンは、意外に少ない。そして、元アナリストなどのコンサルティングから教えられたIR活動を盲目的に行っている会社が多い。が、どうも極端だ。資本サイドに迎合し過ぎなのだ。目先の話は多いが、その割に「中味」がない。この傾向は新興企業に多い。伝統的な企業は二極化している。IRを経営戦略の一部として真面目にとらえている企業と、担当部長に全部任せ、我関せずの経営トップという高度成長期の古き良き伝統から抜けきっていない企業群だ。残念ながら、今まで出会ったところは圧倒的に後者が多い。そういう会社に出会うと、どうしてもIR担当者を励ますことが多くなる。しかし、こういう企業はトップの意識が変わらないと、株価はじりじりと下がり続けるしかない。たまにイナゴの軍団がつまらないニュースに飛びついて急騰するが、長い期間それ以上の幅で下がり続けるものだ。そして、株価を支えるために、自社株買いという高いコストを払うことになる。「それがIRではないか」と思っている経営幹部もいる。勘違いも甚だしい。
IRの「本質」は普段からの資本市場とのコミュニケーションを通じた地道な活動の中にある。それは投資家による「経営戦略の理解」である。これを理解させる努力を十分にしない企業があまりに多い。諦めが早過ぎる。IR幹部は「内」を変えさせることに8割以上の力を費やすべきだ。経験したからこそ言える実感だろう。「組織内」が変わらずして、IRなどはまともには出来ない。ここに向けてIR担当者は組織の「中」で懸命に頑張るしかないのだ。その上での「経営戦略」だ。IRや広報戦略なくして、経営戦略などない。そして、そこに説得力がある本物の「ストーリー」が生まれる。
「ストーリー」を語り合いたいものだ。
工夫に満ちたIR担当者と真剣味のある話をしてみたいものである。ミクロの話ではなく、経営の視点からの話をしてみたいものだ。
私はIRにおける一期一会を楽しみたい。一瞬の桜の美をめでるように。
そして、自分が昔、IRという修羅場である彼岸で楽しんだように。
吉野にて、散りゆく桜を見ながら

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